くず米(ふるい下米)は発芽しないのか?|自然栽培米専門店
こんにちは、自然栽培米専門店ナチュラルスタイルの井田敦之です。
一般的に、お米の世界においても外観の良いお米、大粒のお米には価値があり高値で取引がされています。そのため、農業界では、外観の改善を目的に農薬や肥料を使用することが一般的です。
お米の選別において、ふるいを使用しますが、ふるいから落ちたサイズの小さいお米は「くず米」や「ふるい下米(したまい)」と呼ばれます。
「くず米」と言われると価値がないお米に聞こえますが、本当に価値がないのか?
今回は、サイズの小さいお米に焦点を当てて生命力の有無を確認するために、発芽実験を行いました。
選別機で弾かれた「くず米(ふるい下米)」は発芽をするのかを確認してみましたので皆さまの参考になればと思います。
くず米・ふるい下米とは?
各農家さんは自分のふるい目を決めており、ふるい目よりも小さいサイズのお米は上の写真のように弾かれ分別されます。
これを一般に「くず米」や「ふるい下米」と呼んでいます。
(くず米の中でも割れや欠けたくずと食用となるお米(中米とも言われる)がございます)
農林水産省の農産物検査班に確認したところ
お米の等級検査においてお米のサイズは決まっておりませんが、一般にふるい目は1.7-2.0mmが使用されます。
このふるい目サイズは、お米の栽培地域や品種、農家の販売戦略によって異なると言います。
一般の慣行栽培米農家さんは1.85‐1.9mmのふるい目を使用する方が多いと言います。ふるい目が大きい方が充実しているお米が多くなるので一等米の割合も多くなります。
ふるいの下に落ちたお米でも1.7mm以上のものは食用として活用され、1.7mm未満のお米は加工用として利用されているようです。
参照:ふるい下米とは(内閣府)
自然栽培米のくず米(ふるい下米)を採取
今回は、選別機でくず米(ふるい下米)として分別された中でも1.7mm以下の自然栽培米を採取しました。
一般的には「くず米」として分別される小さなサイズのお米です。
現代では、大きなお米に価値が置かれる傾向がありますが、私たちはサイズでなく、無肥料の環境でも逞しく育ったお米に価値を見出しています。
栄養豊富な環境で育った体の大きい人と、自然の中で逞しく育った中柄な人の違いに似ていると私は考えています。
ふるい目から落ちた小さなお米に価値がないのか発芽実験をして確認してみました。
くず米(ふるい下米)は発芽しないのか?
「くず米」と聞くと、何の価値もないように思われがちです。
しかし今回1.7mm以下の自然栽培米を採取して発芽実験を行った結果、浸水後24時間で上の写真のように良好に発芽しました(発芽実験は7月)。
もともとは小さな粒でしたが、浸水すると粒が大きくなったように見えます。膨張率が良いのかもしれませんがこれは別途調べる必要がございます。
下の写真が浸水して7日後の写真です。
さらに早刈りなどで発生する青米(実際には緑色のお米)もくず米として分別されますが、この青米も発芽実験してみました。
この青米は多少含まれる方が食味が良いということで喜ばれる方もいますね。
青米の浸水7日後の発芽状態
さらに今回は、黒い斑点米の発芽実験の結果も載せます。
黒い斑点米は、カメムシが穂が出た後のお米が柔らかい時期に吸汁する事で発生します。無農薬での栽培ではどうしても混入するお米です。
下記は吸水後3日後の写真ですが、黒い斑点米でも発芽をしてくれました。
「くず米」の中でも欠けたお米や割れたお米は加工用として活用されるのが良いかと思いますが、「くず米」でもサイズが小さいお米は、逞しく生きているのが分かりました。
参照:黒くなっているお米とは
まとめ:くず米(ふるい下米)は発芽しないのか?
上の写真は、1.7mm以下の自然栽培米を7日間浸水させた全体写真です。
くず米(ふるい下米)と言われると全く無価値のように感じ、発芽すらしないのかと思いますが、今回の発芽実験で小さいサイズのお米でも実際には良好に発芽し逞しく生きているのが分かりました。
お米をどのふるい目で選別するのかは農家さんの戦略です。多くの米農家さんはふるい目を大きくしてサイズの大きいお米をブランドとしています。
一方で自然栽培米農家さんの中でも、無農薬や無肥料のためにサイズは小さいお米になるけれども生命力のある逞しいお米を作りたいという視点の方もいます(それでもどの農家さんも1.7mm以上は原則です)。
どちらが良い悪いでなく、価値観の違いに過ぎません。
私たちナチュラルスタイルとしては、食べ物で私たちの命を養っている以上、生命力のあるお米が本質だと思っています。
これまでの現代では外観が良く大きいものに価値が置かれる風潮があり、農業においても農薬や肥料が重宝されましたが、徐々に意識が変化しているように感じます。
物事の本質は見た目ではなく、目に見えない部分にあると感じている人が徐々に増えてきているのかもしれません。